人形への想い

ご寄稿

ご寄稿

「江戸の粋を感じる」 演出家 浅利慶太

小池緋扇さんの人形が好きだ。
私の仕事部屋にも置かれているのだが、一目その姿を見れば、想像でしかない江戸の人々の暮らしや佇まいがはっきりと感じられるような気がする。
まさしくそれは、江戸の粋というものだろう。
緋扇さんは、現代日本において、その粋を表現できる唯一の方なのかもしれない。

作品集『緋扇 人形と生きる江戸の粋』へのご寄稿より

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「人形の浮世絵」 新派女優 波乃久里子

動くはずのない人形が時と場所、また見る人の心により変化し、表情が変わって見えます。
先生の永年の夢がかなって出版された『江戸の粋を人形にたくして』という写真集のタイトルからは、広重の「名所江戸百景」が思いおこされます。
江戸庶民の生活と市中の様子を今に伝える、広重名作の「名所江戸百景」そこに国芳、春信、豊国などの描いた、どこにでもいる女たちが、夕暮れの大川端に吉原に生きている。
人形からも江戸の賑わい、女たちのさんざめきが聞こえてくるかのようです。
江戸の時代、風俗などを反映させている点で、まさに「人形の浮世絵」とは言えないでしょうか。
小池先生の人形は、時代を越え世代を越えて過去を守り続けることだけでない伝統の中で、新しいことに挑戦した結果、本当によいものだけが残り伝えられていく、そのひとつだと信じています。
いただいた「婦系図」のお蔦の人形からは、「切れるの別れるのって、そんなことはね、芸者の時に言うことよ。いまの私へは、はっきり死ねと言ってください」というせつない声が聞こえてきます。
出来上がった写真集にちりばめられた「小池先生の江戸」を拝見することが、とても楽しみです。
私も先生の人形に負けないよう、明治・大正の「新派の女」として生きて行きます。

作品集『江戸の粋を人形にたくして』へのご寄稿より

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「人形の品格」 人形作家 与 勇輝

人形は創る人に、そこ、かしこが似るものです。
それは姿、かたちのみならず心模様や、立ち居振る舞いも似るのです。
歌を指して「歌は世につれ、世は歌につれ……」などと言われますが、人形もまた作者の人生を語るようです。
幸せの時、哀しみの時、恋をしている時など、その時々の表情を映しだすようです。心根までが表現されるものです。
小池さんの作品は江戸風俗をモチーフにしているものが多く、それはさながら浮世絵や新派の舞台のようでもあります。
男性の作家は女性像を創る時、視線の中の女性像を創り、それは恋する女性であったり、母性に安らぎを求める作品を創るような気がします。
小池さんの作品の中の女性像を見るに、男性は到達し得ない生身の女性を発見します。
それは艶やかであり、俗っぽい言葉で言えば色っぽく、そそる色気を感じます。
表情においても男性は見ための表情を追うに過ぎないのですが、女性作家のそれは演じ手である本人が創ることもあり、はっとするほどの世界へ誘うものでもあるように感じます。
人形は言葉を持たないのですが、そのワンシーンや表情のひとつひとつが、人形を見る人にその情景のみならず世界観まであらわし、その後の物語の結末までもイマジネーションさせるものです。
小池さんが長年にわたり求め続け表現している『粋』は、粋と言うこと自体が、人格、品格の昇華された総合芸術のようなものです。
粋は粋な衣装を着せることで解決するものではなく、粋は体をあらわすものでなくてはならないのです。
人形を観る人が思わず「粋だねえ!」と言ってしまえば作者の力量の勝ちなのです。
小池さんの作品には、それがあります。
おそらくに小池さんは粋に歳を重ねてこられた方なのだと推察されます。

作品集『江戸のくらしを人形にたくして』へのご寄稿より

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「人形の命」 人形作家 辻村ジュサブロー

人形には目があります。
でも、なにも見てはいないのです。
鼻があっても、息をしないのです。
耳があっても、聞いていない。
口があっても、なにも話さないのです。
自分の意志で動かないから、哀しいではないか。
心を通わすこともないから、淋しいではないか。
夢を見ることもないし、恋もしないのです。
ひとのかたちをしていて、人間(ひと)ではないのです。
それに変わって、私たちはすべてに自由なのです。
生きているこの世界で、なんとすばらしいことか。
ひとは生まれてきたことがロマンなのです。
人形は、それを教えてくれました。

作品集『江戸の粋を人形にたくして』へのご寄稿より

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「江戸の粋が蘇る」 演出家 浅利慶太

小池緋扇さんの人形には、江戸の市井の人々の暮らしが息づいている。
歌舞伎の芝居小屋から抜け出た役者のように、今にも生き生きと演じ出すかのようだ。
決め台詞を言って見得を切る。
大向こうから声が掛かる。
劇場の賑わいが蘇ってくる。
そう思えるのは、ひとつひとつの人形が、緋扇さんの魂と心粋を宿しているからだろう。

作品集『江戸のくらしを人形にたくして』へのご寄稿より

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